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例年の如くまた歳を一つとりました。
この歳になるまでやろうと思っていたことがまるでできてないままなんですが
今日はそれを棚に上げてなんか書いてみよう。
ここからは最近あまり書かなくなった割とまとまりの無い散文です。
余裕のある方は追記から。
まぁ、きっかけは職場の子と仕事上がりにご飯を食べに行って話したことからなんですが
どうやら今の私は(一緒にご飯食べたその子も)あんまり感情を表に出さないらしいって話になりまして。
そんなことねぇよ結構焦ってたりするのは表に出てるぜ(笑)とは、まぁ、思うんだけども、特にイライラしたりするという、ちょっと表に出すと他の人もう~んて嫌な気持ちになる胸の内のギクシャクを、今のところバイトでは上手く隠せているようです。
現在は大概はご飯食べたり寝たり音楽聴いていたら、バイト上の憤懣というのは大方流れていくみたい。
疲れの方が後に残るわ…というのは歳なのか。歳なのか…
それでいろいろ思い出したり考えてみたんですが。
あだしっちは、地元で学生してた頃は、そりゃぁ所構わず感情を表に出しっぱなしで、不機嫌な時は不機嫌だったし、機嫌のいいときはあからさまに機嫌がよかったり、結構回りを迷惑かける方向で過ごしてました。
特に家族に対しては酷かったなあ。本当なんでだろって思うくらいに神経使う子供だったよ。その節はご迷惑をおかけいたしました。もう時効だと思ってね。
話がずれたな…
で、バイト上の憤懣やなんかについては、ずっと根に持ってる方が精神衛生上よろしくないと思うのです。
大概はずっと悩んでもしょうがないことの方が多くて、そんなことでクヨクヨしてたら先に進めないというだけの話なのですな。
そりゃぁ、自分が良くない事をして相手を怒らせたのなら直すべきだし、私は他の人がそうやって常識のないまではいかないもののちょっとどうだろうという行為を見て他人の振り見て我が振り直せというくらいな気持ちで観察しているつもりではある(つもりなだけで、できているかは今日の議題ではないのです)
そのためなのかよくわからないけれど、正直なところ、その、人間の性質面のことに関して、誰かが誰かの陰口をたたくという行為が理解できない。
とりあえず、自分が言われたらどうするんだという考えにまず先に行き着くわけです。
それとも自分が言われていないとでも思っているのだろうか。
世の中非の無い人間なんていくらもいない。
そんなことで時間を潰すくらいなら、その不満を解消するために何かするべきじゃないの。
よくなって欲しいから不満を出すんじゃないのか。
対象に対して改善を要求するための不満じゃないの?何のための愚痴なのそれはと思うわけです。
特に、自分もよくできた人間じゃないから、もっと気持ちよく仕事をするためにはどうしたらいいか知っているのなら教えて欲しいくらいです。
でも、そう言う人に限って、「じゃぁ、どうすればいいの?」っていうと、「あの人じゃしょうがないよね」って言うんです。
なんだそれ。
実際、自分が言われているのを聞いたわけではないんですけどね。
誰が誰のことを言っててもコレだけはよく思う。
訳がわからない。
行動として論理的じゃないし生産的でもない。
つまらない。
あーつまらないと思うだけ。
まぁ、むしろ自分自身がその不満を作っているかもしれないので、あんまりデカイ顔できないぜスミマセーンていうのが本音なんですが。
そもそもこの日記の内容はそういう人たちを非難するものじゃないんだ。えっとなんだっけ。
そうそう。それにしたって、私のこのイライラとかはどこにいってるんだろう。
どこで発散してるのかしらとふと思ったんでございます。
最初何気なく思ったのは「絵」で昇華しているのではないかということ。
手を無心に動かしていれば確かに気持ちは落ち着くし、それから良い方向に高まることだってできる。
浪人時代は、毎日のようにサイトの日記を更新していたし、内容も感情からくる考えをボロボロ出していた気がする。
これぞ本当の手慰み。
ただ、これは改めて考えると今は違うと思う。
歩く感情火薬庫だった頃は確かにそういう感情で描いていた時はある気はするけど
今考えると逆の感情を持ち合わせていないと私にとっては「絵」は描けない。
イライラ・不満・憤懣・不安とは逆の感情。
一滴の水の冷たさを甘い(美味い)と脳髄で感じ取り、美しいものを見て美しいと清々しくいえる精神をもって、永遠と思える日常の二度と訪れない昨日と今日と明日という日に想いを馳せて、目の端に映る何の変哲も無いものに心動かされて、紙と心にいろんな色の染みを創る楽しさに正直でなければ、私にとっての「絵」というものは何の価値も無いただのコピー用紙のミスプリと同じ物になる。
私は、野の棘のある薔薇を、棘の有るままに美しいと想い、愛したい。
一種のナルシズムじゃないかとも思う。
都合の悪いものに蓋をして、見て見ない振りをしているだけなのかもしれない。
その恐れも多大にある。
ただ、私にとって感情とは、もしくは「感情というものを入れておくための器」は
世界を客観的と同時に能動的に見つめるための道具であって
自分を正当化して他者に当たるための主観的で生産性の無いものを入れておく余裕は無いというだけなのかもしれない。
物理的に、何かをして昇華するのではなく、感情が向かうまま言葉を紡ぐのではなく
ただただ、イライラがその器に居られるスペースが少ないだけ。
私の器の中には、「絵」を描くための感受性が在るから、そもそもソレらの居場所なんてどこにも無かったのだわ。
と、いう風に締めておく。
あぁ、明日からも美しい日々が続きますように